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ナヌカビ通信

ナヌカビ通信

令和5年の夏

3年ぶりにねぶたが青森に帰ってきた。

大型ねぶたは17台。例年より5台少なかったが、大雨が心配された8月2日、花火を合図に例年の運行コースを逆回りで、子供ねぶた4台、担ぎねぶた1台と11台の大型ねぶたが練り歩き、太鼓・笛・手振り鉦のねぶた囃子、ラッセラー、ラッセラーの掛け声の跳人の乱舞とともに、2022年の青森ねぶた祭が始まり、7日夜の「海上運行と花火大会」で、無事、ナヌカビ(※1)が終わった。

新型コロナウイルス感染症の影響で開催に気をもんだ市民の心配を払拭する3年ぶりのねぶたは、どれも見事な出来栄えで見る者すべてに感動を与え、涙を浮かべる市民も出る「じゃわめき(※2)」の夏が青森に帰ってきた。
ねぶた制作者、運行団体の熱意に加え、スポンサー企業の理解あってのねぶた祭りに青森市民の多くが感謝し、新型コロナウイルス感染症、大雨、洪水、猛暑、熱中症、物価高に経済停滞、加えてウクライナの悲劇、阿部元首相の銃撃など世界中の暑い夏の暗い世相の中で青森市民は一時元気を取り戻すことができた。

今年は17台の大型ねぶたを12人のねぶた師が制作した。題材は神話、説話、大河ドラマ関連、疫病退散、自然災害への恐れ、水滸伝など武侠物やご当地物縄文に加え、制作者の想像力を生かした力作が披露された。やはり新型コロナウイルス感染症の終息を祈念しての工夫がなされていた。竹浪比呂央はご当地説話龍王を菱友会で制作し、7度目のねぶた大賞と8度目の最優秀制作者賞を、JRねぶたの鍾馗で9度目の知事賞も受賞した。

ねぶた大賞・最優秀制作者賞 受賞
制作者:竹浪比呂央

新型コロナの影響で中止を余儀なくされ、3年ぶりのねぶた祭りはこれまでといくつかの変化があった。

1つ目は、大型ねぶたのみならず「子供ねぶたや地域ねぶた(※3)」の運行台数が減ったことである。
青森のみならず県内各地のねぶた祭りに見られた現象で来年以降の回復が望まれるがどこもかなり難しいようである。制作者や運行団体を支える世話人の高齢化による後継者問題と資金集めの困難が主な原因である。いくつかの地域ねぶたは今年で最後の参加にすると表明した。少子化で少なくなった子供たちが大人になったとき観光事業としての商業イベントか、地域に根差した祭り文化のどちらを選択するのだろう。
専門のねぶた師による製作技術の継承は、当面活躍の場の増加に伴いさほどの危機はないだろう。

2つ目は、青森ねぶた祭では一般のハネトの参加が制限され、事前申し込み者の中から抽選で選ばれたハネトしか参加できなかったため、青森ねぶたの最も特徴的で魅力の一つであるハネトが大幅に減ったことや、運行方式が「一斉スタート(※4)」から柳町通りの交差点から新町通りへ、1台ずつ順次スタートする「吹き流し方式(※5)」に変更され、コースは同じでも反対周りになったことである。
津軽地方をはじめ地域のねぶた祭りもコースの短縮や、参加者の制限など新型コロナウイルス感染症対策に苦心しながらの開催であった。運行コース沿道の屋台や露店などの販売も大幅に制限された。また、青森ねぶた祭りでは「前夜祭(※6)」も中止された。
新型コロナ対策として安全を優先しての措置であろうが、ハネトの数的規制のみならず、羹に懲りてナマスを吹くような過度な規制は来年以降やめてほしいものだ。
かつて青森ねぶたは誰でも参加できる祭りとして宣伝され、ほかの祭りに比べてねぶたの隊列のなかでの自由さと乱雑さによる北国の夏の熱気、一定のルールの中でも可能ないわゆるバカ騒ぎが、ねぶた本体の豪華さと腹に響く大音量の囃子のリズムと相まって多くの観光客を魅了した。それがほかの祭りと違う青森ねぶたの特徴であり、魅力でもある。また、観光とは異なり、参加することを目的に全国から多くの若者たちが集まり、「全国各地で開催される次のねぶた祭(※7)」での再会を約束して、全国に散って行った。その多くは、バイクや自転車などのライダーで、フェリー埠頭の緑地にはテント村が用意され、自主管理されていた。運行団体とも懇意になり運行の手伝いする者もいた。彼らの中には、本番の青森ねぶたでを経験し、囃子やハネトの技法や運行のノウハウを彼の地に伝播する役目を果たす者もいた。
一般のハネトの増加や、今ではなくなったが「カラスハネト(※8)」が問題になった時期、花笠着用、正装での参加、運行団体の統一された浴衣の義務化、事前登録など責任逃れのためとしか思えない、アリバイ作りの規制が繰り返され、主催者と運行団体側の責任の押しつけ合いは著しくねぶた関係者間の信頼を損ねてきた。誰でも参加でき、ねぶたと囃子さえあれば何でも受け入れる寛容さでここまで大きくなってきた商業都市青森のねぶた祭であるのだから、ねぶた祭りのためというなら、せめて制作者の技術向上、制作環境の改善、自由な想像力の発揮、活動の場の拡大に意を用いてほしいものだ。
今年のねぶたはハネトより囃子方の人数のほうが多いねぶたがほとんどで、ゆっくりねぶた本体を楽しむにはよかったが、やはり寂しさを感じざるを得なかった。青森市民にとってねぶたは見るものというよりやはり参加するものである。全国のねぶたファンにとっても規制は少ないに越したことはないのである。

3つ目は、ねぶたを見物する観客の大幅な減少である。観光客も減少することが予想されていたので有料観覧席も減少した。
祭り直前になっての新型コロナウイルス感染症の感染状況や大雨の影響でキャンセルが増えたとのことである。例年なら運行コースからそう距離のない幹線道路や裏通りに大型の観光バスが停車していたが、今年は連日極端に少なかった。
運行コースの沿道では、どこでも何の困難もなく自由に見ることができた。
主催者は担当者の目視により期間中の観光客を105万人と発表したが、誰も確認していないのだからその発表の意図も含めて目くじら立てるほどのことでもない。そんな中、100万円の観覧席が売り出された。特産品を用いた食事に地酒の提供と現役ねぶた師による解説付きである。一粒数万円のサクランボに1貫数万円の大間のマグロを送り出した青森なのだから、何でもありの青森のねぶたらしい出来事であろう。まだまだたくさんの付加価値を生み出す可能性が青森ねぶたにはあるということである。

4つ目は、第5代ねぶた名人千葉作龍の現役ねぶた師引退宣言である。
1947年生まれの75歳での引退宣言である。10歳のころから父、作太郎のねぶたづくりに加わり、父の死後1967年20歳で一本立ちしてから半世紀以上にわたり、確認できただけでも実に157台の大型ねぶたを制作に限らず、正調ねぶた囃子の普及などにも尽力し、青森ねぶたのリーダーであり続けた。
1973年に最初の「田村麻呂賞(※9)」受賞のねぶた制作をしてのち、これまでに田村麻呂賞6回、「ねぶた大賞」5回の受賞ねぶたを制作した。2012年同年代の北村隆と同時にねぶた名人に認証され、多くの後継者も育てたねぶた師である。
1982年から2019年まで37年間制作したサンロード青森のねぶた制作を弟子の吉町勇樹に譲り、独り立ちさせた。1977年に初陣したサンロードねぶたの制作を6回目から担当し田村麻呂賞、ねぶた大賞ほか数々の賞を受賞した。師の手掛けたねぶたの中でもサンロードねぶたは独特の作風を見せ、一見してサンロードねぶたとわかるほどであった。
ねぶたの魔力に取りつかれながらも健康上の理由での引退宣言であった。今後も後継者の育成や、ねぶた伝承のため等の講演などに活躍が期待される。台上げに際して、師弟2人で見守る姿がテレビで放映され、師の胸に去来する思いに馳せ、一抹の寂しさを感じた。
お疲れ様でした。そして今後も折に触れてのご活躍を心からご期待申し上げます。

制作者:千葉作龍

今年は3年ぶりの祭り開催とあってか、マスコミへのねぶた師の登場が以前より目立った。名人千葉作龍の引退、弟子の吉町勇樹のデビュー、立田龍宝の制作現場、新たなねぶた師界のスター北村麻子の思い、制作ねぶたがなくなった内山龍星の思い、竹浪研究所の医大生の研究員の紹介などのほか地域の祭り関係者の思いなどが折に触れ紹介されていた。
青森県のみならず、東北地方の夏祭りのみならず、3年ぶりに開催される全国の祭りの様子が紹介された。行動制限のない3年ぶりの夏である。大雨や猛暑に加え、先の見えない新型コロナウイルス感染症第7波渦の中での夏祭りである。伝統、文化、地域に根差した祭りを時代や社会の変化に対応しながら、何を残し、何を受け入れ、何を継承するべきかを考えるいい時期であったと思われる。単純に3年前の形に戻ればいいことだろうか。次回までに考えるいい機会ではないだろうか。
ねぶた師の技量と想像力は彼らの研鑽で確実に進歩することだけは確実なのだから。

千葉作龍の弟子 吉町勇樹デビュー作

※1 「ナヌカビ」
ねぶた祭最終日の8月7日のことである。
8月7日は立秋で秋の始まりであるが、青森では最終日の最後のねぶたを送る風は秋を予感させ、祭りの喧騒と夏の熱気が去り街からじゃわめきが消え、静けさとねぶたのない日常へと帰っていく。夏の終わりとねぶたの終わりの寂しさだけでなく、やがて来る厳しい冬を覚悟しながらも来年のねぶたに向けて新たな1年の出発への感情などが入り交じり、青森のねぶた人はナノカと言わずにナヌカと訛った発音でいうのである。

※2 「じゃわめき・じゃわめぐ」
ワクワクして心が躍り、居ても立ってもいられない状態のことである。
ねぶた本番前になると、徐々に街が活気づき、各所でねぶた囃子の練習が始まると、その音に心が躍りだし、自然に体も動き出す。やがてねぶた本番では、行きかう人の会話や、息遣い、ねぶた囃子や浴衣につけた鈴の音、露店や海風を含む祭りのにおいなど、ねぶた祭特有の喧騒は、五感すべてを刺激する。青森では人とともに街がじゃわめぐのである。 

※3 「子供ねぶたと地域ねぶた」
町内会や地域のコミュニティーが中心となって運営されるねぶたである。
合同運行ではなく各地域を練り歩く小型のねぶたであり、小屋掛けも制作も地域の人が中心になって運営されていたが、近年ではプロのねぶた師に制作を依頼する団体もある。大型ねぶたと一緒に2日と3日の合同運行に参加するねぶたを大型の大人ねぶたに対して子供ねぶたという。観光化されていない昔ながらの風情を残している。ねぶた祭が中止になった去年、一昨年も一部で運行された。地域に隠れたねぶたバカは愛すべき青森の宝である。参加台数は減少傾向にありその振興策に反対する人はいない。

※4 「一斉スタート」
運行コース上にその日運行するねぶたをハネトと一緒にあらかじめ配置して置き、花火の号砲で一斉にスタートする方式である。
カラスハネトの締め出しを目的に2001年から導入された。予めハネトも分散され途中から横入りするハネトを減らすため運行係の増員が各団体に要請された。一方観客は待つことなくどこでもすぐにねぶたが見られることで歓迎された一面もある。しかし交通規制を解除するための制限時間が来るとコースを1周できないねぶたもあり、観覧場所によってはすべてのねぶたを見ることができない不都合も生じた。ねぶたを見て次の祭りの都市へ移動するバスによる団体観光客向けの有料観覧席の売り上げの兼ね合いなどから議論の多い運行方式である。 

※5 「吹き流し方式」
スタート地点を一か所にしてその日運行するねぶたが順番に出発する運行方式である。
観覧する場所によってはねぶたが来るまで長い時間待たされることや、ハネトが最後尾のねぶたに集中する傾向があり、運行を終えた団体からハネト整理に応援が要請された。一桁国道の規制解除時間をめぐっては議論が絶えなかった。最初のねぶたの運行が終わってもまだ出発していないねぶたがあるなどの課題もあった。新町スタート班、国道スタート班に分かれて課題の解決に取り組んだ時期もあったが、今でも運行団体からは吹き流し方式を望む声が多い。

※6 「前夜祭」
合同運行の始まる前日の8月1日にねぶた団地で行われ、灯りのついたすべてのねぶたが披露される。
ステージでねぶた師が紹介され、翌日からの本番を迎える喜びを味わうイベントである。運行団体も本番の運行では、自分の運行にかかりっきりでとてもねぶた祭りを楽しむ余裕がないのが普通である。そのため、制作や運行に携わる関係者たちがねぶたを楽しみ、それまでの苦労をいたわりながら、本番のねぶた運行に向けて元気を取り戻すことを目的に、1981年からねぶた団地で始まった。
ねぶた団地は1980年から浦町小学校跡地に設置され、それまでの前夜祭は浅虫の花火大会と諏訪神社での正調ねぶた囃子の段級試験などがあった。ねぶたの前夜祭がねぶた祭りを実現するために苦労している運行団体やねぶた制作者と関わりのないところで行われていることに対する疑問が動機であった。主催者側から一方的押し付けられる規制や難題に対する運行団体の反発も根底にはあった。
今は祭り事業のイベントの一環として扱われているが、元々はねぶた団地運営委員会の催しであった。もつけなねぶたバカを讃えるため、どれだけ長く跳ね続けられるか、どれだけ長く太鼓をたたき続けられるか、笛をどれだけ長く吹き続けられるか、極めて単純で誰にもわかる基準の持久戦が行われ、協賛する運行団体から、ルビーの指輪、ハワイ旅行などの賞品が提供された。
初期のころには、森田公一やジャニーズのグループがキャンペーンに来たこともあった。
現在では、最終日の花火大会並みの集客があり、明るいうちから子供たちの囃子グループの発表などが行われている。

※7 「全国各地のねぶた祭」
青森ねぶたのみならず、弘前の扇ねぶた、黒石の組ねぶたなど青森県内のねぶたが全国各地に移出され、独自にねぶた祭が行われている。
最初は青森で運行された小型のねぶたや、大型ねぶたの一部が持ち込まれ、ねぶた師が修理に出向く形が多かったが、現地で制作したり、制作指導などで次第に伝播していった。
役所などが行うイベントなどへの派遣ねぶたと違い、地元に根付いて独自のねぶた祭が行われている。主なものでは、つくば、柏、北海道には斜里町他多数の地に根付いている。県出身者が中心になって祭り実行委員会を運営したり、関東には囃子やハネトの団体などもあるなど、ねぶた体験者が参加している。特定の神を祀る寺社祭礼ではないねぶたは、どの地方にも受け入れやすさがあるのだろう。これも青森ねぶたの特徴である。

※8 「カラスハネト」
浴衣ではなく、黒いとび職などの服装で参加し、跳ねるのではなくねぶたの運行を妨害したり、他のハネトたちを威嚇したり暴行を加える集団のこと。
1986年ごろから、黒いデザイナーブランドの半纏が高校生などに流行り、その後若者を中心に徐々に増え、90年代には暴走族などが集団で市内外から集まるようになり、全国的に話題になった。1996年カラスハネトを最後尾に囲い込むなどの対策も取られたが、逆に参加を認めたと捉えられ、2000年には数千人のカラス族が後方のねぶた数台を占拠し、運行係に対する暴行やねぶた本体への破壊行為なども見られ、県迷惑行為防止条例の制定のきっかけにもなった。機動隊が動員され、カラス族排除のため各所に待機し、規制にあたった。トラブルが多発し、逮捕者も多数でた。祭りの趣は著しく損なわれたが、一斉スタート方式の採用などで10年くらいかけてようやく終息の方向に向かい、現在ではほぼ青森ねぶたのカラス問題は解消された。
カラス族は青森ねぶたに限ったことではなく、成人式で気勢を上げて式を妨害する一部の若者集団に似て、全国の祭りに見られた現象であった。衣装の色により白は白鳥族、ピンクはフラミンゴ族などと言われた。

※9 「田村麻呂賞とねぶた大賞」
坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際、トロイの木馬のような行燈に火をともし蝦夷をおびき出し、征伐したとの言い伝えからその灯篭がねぶたの始まりだとされ、青森ねぶたの最高賞を田村麻呂賞とした。
1962年から1994年までその名が採用されていたが坂上田村麻呂が青森の地に来たという史実が確認されないことや、ねぶたの起源も定かでなかったことから、ねぶたの最高賞の名称にふさわしくないとの意見があり、1995年からはねぶた大賞という名称が採用され現在にいたっている。ねぶた本体の出来栄えと囃子、ハネト、運行などを総合的に審査員が採点してその総合点の最も多い団体に授与される。それに次ぐのが知事賞である。
また、ねぶた本体の点数が最も高いねぶた師には最優秀制作者賞が授与される。
2つの賞をダブル受賞するのが通常ではあるが、稀に別々になることがある。ねぶた師にとっては総合賞のねぶた大賞よりも最優秀制作者賞を重視される。
ここ20年くらいの間、各団体が囃子方を独自に育成して、長半纏などの衣装にも凝りそのパフォーマンスに力を入れるようになったのもねぶたの顕彰制度によることもあると思われる。
人が審査して採点するのだから完全ということはないのかも知れないが、かつては審査の方法や基準に加え、審査員の人選などにも様々な意見があり、賞そのものの権威付けにも意見があった。愛すべき青森のねぶたバカはとりわけねぶたの各賞について、皆一家言を持ち議論しだすと一晩や二晩では収まらないほどである。
1997年と98年は審査制度に異を唱える形で、ねぶた団地で制作にかかわる運行団体が団地大賞という賞を作ったことがあった。団地で作業するねぶたの団体が投票して決めるのである。2年とも竹浪比呂央の制作したマルハニチロが選ばれた。ともあれねぶたの顕彰制度は、ねぶた師の制作意欲を高めるのみならず、運行団体やスポンサー企業などねぶたを愛するすべてのねぶたバカにとっての一大関心事である。 大賞に次いで総合点の高い順に、知事賞、市長賞、商工会議所会頭賞、観光コンベンション協会会長賞があり、上位受賞団体のねぶたが海上運行に参加する。その他、個別部門賞に運行・跳人賞、囃子賞があるが、今年は参加者を制限したことから選考されなかった。    

                       

 

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